禅へのいざない
興 禅 護 国 (禅を興し 国を護る)
坐禅学校 に 来たれ 集まれ
一.日本の現状をどうおもいますかーーーーー
なんとかしなくてはならん と思っている人。
一.不可能な夢の実現ーーーーー
野望、野心といわれるぐらいの大きな欲を持っている人。
一.忘己利他(己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり)ーーーーー
世の為、人の為に役に立つはたらきをしたいと願っている人。
興禅護国の 旗のもとに 来たれ 集まれ

佛國寺 黙雷 名古屋・坐禅学校にて
体をもって実践する
・ 思い、願い、夢をもつことは、たやすいことである。
だが、その思い、願い、夢をどのように実現するかである。
・ 思い、願い、夢を頭の中でいろいろ考えたり、
言葉を弄したりしても実現できるものではない。
一つに集約し、
そこに体をもっていき、実行、実践する。
それが、思い、願い、夢を具体化し、
実現する道である。
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
成らぬは人の 為さぬなりけり
(上杉 鷹山)
興 禅 護 国
― 禅によって国を繁栄させるー
禅に生きる僧侶として、
荒れ狂う大波にのまれんとする、
日本の現状を憂え、
狂瀾 を既倒に廻らさんと志す時、
艱難辛苦 を共にする同憂の士を求め、
求めては心の壁にぶつかり
人物養成の必要を痛感し、
想は自ずから「人間教育」に到る。
* 狂瀾を既倒に廻らす荒れ狂う大波を、本来の正しい姿に返す。
(中国古典『文章軌範』)
禅 への いざない
個を発見し、個を開発し、個を確立して、
真個の独立人となる。
禅は、
人が人として生きるには、どうすべきか、どうあるべきか。
自分が自分に成り切る、自分に徹し切るには、
どうすべきか、どうあるべきかを説く人間学である。
・ 今日、人間の欲望を、政治的、経済的、社会的に開発したが、
その欲望が人間の知恵を離れて、
人間を押しつぶそうとしている時代である。
・ 禅は、この欲望(人間の根本欲)こそ、
人間の行動の源泉であり、出発点であり、
生命と同じように尊いものであると捉える。
・ 人間の欲というものを、
世の中の人々が重んずるようでいながら、
その実これを軽視し、侮蔑している事に対して、
私(佛國寺黙雷)は、強い疑念を抱いている。
・ ただ、欲をそのまま放置せず、人間の知恵で、
その欲に方向を与えなくてはならない。
その知恵を人間に与えるもの、それが禅である。
・ 禅は、欲を抑え殺すのではなく、
仏法(智慧)の光で欲を活かし、欲を志を行う欲に変革し、
自己を
最も人間らしく生きぬこうとする人間に変えることにある。
・ 禅は、
人間の欲望を正当に理解し、正当に位置づけて、
欲望を人間の知恵の支配下におき、
ますます欲望を開発し、
最も生命力ある人間として、
この世に生きさせようとする
生きた世界の、生きた人間相手の、
"生きた人間学"である。
・ 今日は、混乱の時代であり、
価値喪失の時代である。
だからこそ、
自己をとらえ自己に成り切って生きることは、
今日最も必要なことである。
坐禅の力 生きる力
坐禅の効能は、
人智を明快にする力がある。
人情を温良にする力がある。
人意を堅固にする力がある。
更に、人智明快、人情温良、人意堅固の効能によって、
社会が進取の気象に富み、国民の気力を増進させて、
国運を発展せしめ、世をして進歩せしめる力がある。
是を始めとして、万事万端、すべてにおいて、
自由自在、円融無碍の境地を自証自得せしむる力がある。
* 自由自在(じゆうじざい)=何ものにもとらわれることのない、
のびのびとした安らかな身心の境地と、
そこから現れるとらわれのないはたらきをいう。
* 円融無碍(えんにゅうむげ)=それぞれのものが、
その立場をたもちながら完全に一体となって、
互いに融け合い妨げないこと。
人生のさしせまった大事は、
いかに生きるか の問題である。
・ 人生というものは、理論理屈が先にあるのではなく、
何よりも「先ず生きる」という
自己生存欲という事実から出発しているのである。
・ 宗教や政治、経済はもとより、
道徳、哲学、芸術等々一切の文化が、
この事実の上に立っているのである。
そして、人間が生物である以上、最も切実な問題である。
・ その欲求や苦悩から出発しないところの、
ただの理論理屈が私達の人生に何の意味があろう。
生 に 執 着
「生きるがための努力するとも終極(しゅうきょく)は
死のほかはない。
死は人生の大団円(だいだんえん)(*)
私達の生活は 一歩一歩この大団円に近づくに過ぎない。
夢の如き生(せい)、何かあらん。」
* 小説・劇などで、めでたく解決がつく最終の場面。
との説教を聴いて成程そのとおり とは思うが、
私達の本能は、
ただちに生の努力をなげうって死につくを許すほど 簡単なものではない。
・ 俗謡に
「夢と諦めりや何でもないが、そこが凡夫でねえ貴方」とあるが、
私達は悟りすました哲人ではない。
深く「生に執着する」凡夫である。
・ 凡僧、凡夫の凡情と笑われるかもしれないが、
私達の努力の大部分は、否、むしろ全般は、
生きんがための努力である。
・ 渇(かつ) して 飲(いん) を求め、
餓(う) えて食を求める。
この自然の衝動も、その根底には、
生を欲する私達の根本本能が 存在するからである。
・ この点において私達は、他の動物と何ら異なる所はない。
ただ私達の異なる所は、この生を有意義なものとする。
この努力を有効なものとする。
この生活に一段の進歩を求めんとする意識を有するところにある。
向 上 心
・ 生き甲斐ある人生、充実した人生。
この意識あるが故に、
私達は禽獣の如く、虫魚の如く、
生きんがために食い飲むのではなく、
その内に 自己存在の意義 を求める向上心を有するのである。
この向上心 と 生の執着 との 紛糾(ふんきゅう) 葛藤(かっとう) は
人間苦、生活苦、社会苦の人生問題を 惹起(じゃっき) し、
世間の状態を益々複雑化させるもととなる。
・ この自ら複雑化したる世間の状態の中に立って、
いかに生きるかの問題は、
さらに 新(あらた)に 私達の当面に肉迫して来る。
自縄自縛、
自ら結んで自ら解けず、
この難問題の迷宮に没頭して出るに出られず、
四苦八苦、七転八倒しているのが現代生活の実情ではなかろうか。
・ この煩悩地獄、四苦八苦の娑婆世界(人間社会)の中で、
どうしたら苦悩を解決することができるか。
・ その解決の智慧を伝授してくれるのが坐禅である。
・ 特に人間性喪失の現代社会の、
現代文明のなかで、
疎外されて生きつづける以外にない現代人にとって、
その疎外を克服する道は、
「本来の自己」――
自己を発見し、自己を開発し、自己を確立して、
自分自身に価値を置き、
その自分に徹し切って生きるしかない。
・ 現代社会を、現代文明を、
自分自身の足下に確りと捉え、踏みしめる以外にない。
・そのためにも、
自己とは何かを知り、
自己に最大最高の価値をおき、
自分自身の判断、
自分自身の命ずるところによって生きることが、
今日最も必要なことである。
・ 禅は、
自分とは何か、
自分は何によって生き、
何によって最も自分らしい本質を活かせるか、
その奥義を伝授してくれる。
自己の存在価値、
人生の意味を見出す為、
あなたと一緒に禅を勉強できればうれしく思います。
住職 佛國寺 黙雷 合掌
- 禅へのいざない
- 坐禅学校 勧進行脚
- 1 坐 禅 学 校
- 2. い の ち の 学 校
- 3. い の ち の 森
- 自然宗佛國寺 概略
- 住 職 ・ 佛國寺 黙雷
- 黙雷和尚 からの 手紙
- 副住職 ・ 薬師庵 妙円
- お問合せ
- リンク
- アルバム
プロフィール
- 自然宗佛國寺
- 文部科学大臣認証
- ・公益事業
- ・いのちの学校 ・いのちの森(商標登録4310763号)

- アクセス数
- 2205
- ページビュー数
- 5206
